アメリカで日本についての研究や論文の発表がもっとも盛んだったのは第二次世界大戦当時と聞いたことがあります。戦争を勝ち抜くためにはまず相手のことをよく知ることからという理屈ですね。このような日本を学びの対象にした学問分野を日本学と呼んでいます。
日本学の起源
欧米における日本学の始まりは意外に古く16世紀。つまり戦国時代にまでさかのぼります。当時はヨーロッパ諸国がアフリカ、アメリカ、アジアなどへ進出した大航海時代の真っ只中。アジアへ赴いたキリスト教の宣教師の手によって日本見聞記がまとめられたのです。
それ以前の日本について書かれたものといえば“黄金の国ジパング”で有名な東方見聞録がありますが、こちらは実際に日本の地を訪れた記録ではなく、中国での集めた伝聞を記録したものです。ただそこに書かれた道までもが黄金で敷き詰められているという記述は当時のヨーロッパの人々の冒険心に火をつけたことは間違いのない事実でしょう。
日本が長い鎖国を経て近代国家として開国した明治以降は、アートの世界におけるジャポニズムの流行などもあり、日本への関心や研究は活発化しました。さらに、日清・日露戦争から第二次世界大戦にかけて欧米列強に比肩する軍事国家となった時代には、日本に向けられる目も、冒頭に書いたアメリカのように軍事戦略としての日本研究が進んでいったのです。
特に、直接日本と交戦していたアメリカでは情報分析や戦争を有利に導くためのプロパガンダとして活用するための日本文化研究が行われたのです。
近代ジャパノロジーの始祖アーネスト・サトウ
日本に興味を持ち、論文や文章というカタチで紹介した人物の中にアーネスト・サトウがいます。「一外交官の見た明治維新」「明治日本旅行案内」「維新日本外交秘録」の著作でイギリスにおける日本研究の基礎を築いた人物です。
そして神道は宗教かという今も国人を悩ませるテーマについての論文や講演をまとめた「神道論」は近代ジャパノロジーの始まりとして今も評価されています。
サトウという名前から日系人の佐藤さんと思っている人もいるようですが、彼の出自はイギリスの外交官。もっとも日本名は佐藤愛之助と名乗っていたそうですからあながち佐藤でも間違いではないようですね。
エドウィン・O・ライシャワー
アメリカの東洋史研究者でハーバード大学教授だったエドワード・O・ライシャワーは1961年から1966年まで、駐日アメリカ大使を務めた人物として日本でもよく知られた存在です。
しかし彼と日本の因縁はそれだけにとどまりません、何を隠そう彼の出生地は日本。現在の東京都港区白金台に生まれ多感な17歳の青春期まで日本で育った日本で過ごした江戸っ子なのです。前妻と死別した後には、日本人女性と再婚するなど、日本とは深い因縁で結ばれています。
また、ライシャワーの生家は東村山市にある明治学院東村山高等学校敷地内へ移築されています。日本及びアジア研究者として活躍したライシャワーの事績には、円仁の「入唐求法巡礼行記」についての研究や近代日本を再評価した「近代化論」などが有名です。また「ライシャワーの見た日本」「ザ・ジャパニーズ」「日本近代の新しい見方」など広く知られています。
ドナルド・キーン
東日本大震災を期に日本国籍の取得及び日本での永住を決心したドナルド・キーンは日本文学と日本文化研究の第一人者。
コロンビア大学の名誉教授でケンブリッジ大学・東北大学・東京外国語大学・杏林大学・東洋大学他の名誉博士でもあります。源氏物語に感動したことをきっかけに日本語を学び始め、やがて日本研究という生涯のテーマを見出しました。研究対象である日本文学は幅広く、近松門左衛門、松尾芭蕉などの古典から三島由紀夫など現代文学までを網羅しています。
また、菊池寛賞、読売文学賞、日本文学大賞、全米文芸評論家賞、井上靖文化賞などの賞歴に加え、勲二等旭日重光章勲二等旭日重光章、文化勲章などの栄誉にも輝いています。その著作には代表作とされる「日本文学史」「明治天皇」をはじめとする日本語で書かれた作品30点のほか、英語で書かれたものも25点ほど出版されています。
研究者を魅了する日本という知性
その他にも「日本文化の起源」の著者で、森鴎外の小説を翻訳したフランスのシャルル・アグノエル、日本文化を説明した「菊と刀」の著作で知られるアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクト、「日本古代詩の研究」などヨーロッパにおける万葉集研究の開拓的存在とされるドイツのアウグスト・プフィッツマイアー、自死をテーマとした日本文化論「自死の日本史」でフランスの思想界に衝撃を与えたモーリス・パンゲなどが知られています。
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