世界の中には宗教の違いで対立している国も珍しくありません。そんな諸外国の目は、とても奇異なものに映るのが日本の宗教を巡るナゾの数々。年末はクリスマスを祝い、年が明ければ神社やお寺で初詣、お葬式はお寺で、結婚の誓いはチャペルでなどなど。その自由奔放ぶり?には海外の人々もは頭を抱えるばかり。
しかし、しかしですよ、この節操のなさこそ、日本人の包容力、ふところの広さと言っては褒めすぎでしょうか。
オープンマインドの国。日本
古来から人間の生活習慣と宗教は切り離すことのできないものでした。むしろ、住んでいる土地や環境が宗教上の習慣やタブーに影響を与えたと言ってもいいかも知れません。
宗教の世界には大きく多神教と一神教に分けられます。日本の神様はというと多神教には違いないのですが、その数が半端ではありません。八百万(やおよろず)といいますが、これはそれほど多いというひとつの表現方法。身の回りのモノ全てにと言っていいほど、多くの神様が宿っているという考えなのです。言ってみれば、見るもの聞くもの全てが神様的な環境。これをスゴイと言うか、身近とみるか。とにかく空の神様や大地の神様、風の神様などはギリシャ神話でもおなじみですが、日本には台所の神様に、田んぼの神様、トイレの神様もいるのですからね。
実はこのオープンなマインドこそ、お寺と神社が私たちの中で無理なく共存している要因のひとつなのです。
神道が日本の自然の中から生まれたものだとしたら、仏教はお釈迦様を発案者とする哲学的な宗教とも言えます。
仏教が日本に入ってきた当時は紆余曲折もあったのでしょうが、結果的に仏様も神様のひとりとして受け入れられるようになりました。こうして別々の宗教でありながら、ひとつの信仰として共存するという形ができあがっていったのです。
この以前からあるものと、新しく入ってきたものを融合させるという発想、なにかに似ていません?
神も仏もアレンジ文化の国。日本
以前からある技術や発想を結びつけて新しい価値を創造する企業と聞いて思い出すのがiphoneで有名なapple。でもこのビジネススタイル、もともとは日本の企業が得意にしていたものなのです。既存のモノを独自の観点で見直し、新しい価値を与えるこのアレンジの文化は、私たちが祖先から受け継いだ大切なDNA。その象徴とも言えるのがお寺と神社の双方を共に祀る日本のライフスタイルです。
この信仰形態は、神仏習合(しんぶつしゅうごう)もしくは神仏混淆(しんぶつこんこう)と呼ばれ1000年以上もの長い間、生活に密着したものとして受け入れられてきました。
その関係に変化が表れたのは江戸が東京へと変わった明治の時代。新政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため神仏習合(神仏混淆)を禁止したのです。これをきっかけに寺院や仏具を破壊する廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動も行なわれた。 しかし、生活に密着したライフスタイルはそう簡単に変えることなどできません。何事にも争いを避け調和を望む日本的な精神もあってか、「山門と本堂があり住職がいる」のががお寺、「鳥居と本殿があり神主がいる」のが神社という違いや参拝方法も異なりますが、心の中で共存しているという点では同じこと。私たちがお寺や神社をライフサイクルの時々に関わるごく当たり前の空間として認識していることこそその証明。クリスマスの習慣によりキリスト教が親しまれていったことも同じ様に日本的なオープンマインドの表れと言えます。
ひとつの価値に縛られないこの自由な発想は、日本文化のDNAそのものかも知れません。
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