日本を語る時に便利な言葉として「四季の国 日本」という表現があります。
しかし、四季のある国は日本だけではありません。
南北両極や赤道のそばなどを除き、程度の違いこそあれ、季節による変化は世界中のいたるところで起きている現象です。
日本文化に興味を持つ外国人の間でも“why?”と密かな話題を呼んでいる、この“四季ひとり占め”現象。
ナゼ?どうして?
その秘密をタビノト。視点で考えてみました。
日本文化のベースにある季節感というルール
欧米諸国さらには、お隣の中国であっても軽い違和感を覚える理由のひとつに季節と服装についての感覚的な差があります。真夏にダウンを着たり、冬だというのに短パンで街なかを歩いたり、カラーコーディネートや素材についても季節感はどこへ行ったのと思うほどの自由ぶり。この違和感体験、日本在住の外国人が増えたこともあり、最近では国内でもよく目にするようになりました。筆者などは12月の札幌市内で、すね毛むき出し短パン姿で満面の笑顔を浮かべる男性に驚愕したほどです。
この光景を見た瞬間、気づきました。彼は自分にとってこの服装が心地よいからそうしているのだと。なにを当たり前のことをさも大発見のようにと思うでしょうが、ここがポイントです。
私たち日本人には個人の感覚に優先する季節感という共有ルールがあるのではないでしょうか。衣替えや土用の丑の日などの習慣もそのひとつ。寒いから、暑いからという感覚的な理由ではなく、春になったから、師走のこの時期だからと言った季節毎の決めごとに従うことで社会が円滑に動いていく、そんなルールとしての季節感こそ日本人に共通する感覚ではないでしょうか。
ルールは社会生活をスムースにするための決まりごと、暗黙の了解です。私たち日本人の中には、意識せずとも身についたルールが生活感覚として根付いているのだと思います。
四季をもっと注意深く観察してみると
春・夏・秋・冬で構成されている四季ですが、さらに細分化された二十四節気(にじゅうしせっき)と呼ばれる分類があります。
この二十四節気の定義を見ると、1年の太陽の黄道上の動きを視黄経の15度ごとに24等分して云々となりますが、ここでは詳細を割愛して話を進めます。
二十四節気は簡単に言ってしまうとこの時期の気候はこんな感じですよ的な一種の基準です。特に農業が主要産業だったかつての日本社会では、大変重要なものだったようです。例えば昼が一年中で一番短くなる冬至(とうじ)にかぼちゃを食べる習慣などは、カロチンやビタミンなどの栄養補給で、風邪への抵抗力をつけようという知恵なのでしょう。
また、5月の芒種(ぼうしゅ)は稲など穀物を植えるには最適な時期、10月初旬の寒露(かんろ)は稲刈りも終わる頃といった具合に年間計画の指標としていたのでしょう。多くの労働力を必要とし共同作業が必要だった時代には、このような季節のルールが重視されていたのです。この共同体ルールは農業に限ったものではありません。漁業では網元を中心とした集団が、また他の産業でもギルド的な集団が存在し、一定のルールの中での相互扶助が行われていたのです。
この感覚の共有は物事をシンプルに、スムースに進める上で役立つ要素でもあります。日本独自と言われる文化が多いのもこんな共有意識に由来するものではないでしょうか。
時代は変わり、季節感が失われたと言われる近年の日本でも、私たちの心の奥には季節感という日本の心が息づいています。虫の声や川のせせらぎを情緒として受け止める気持ちや移ろう季節に喜びや寂しさなどを感じる心の繊細な動き。そんな日本の心が育てた文化は四季の国、日本が世界に誇るべき貴重な文化資産です。
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