オリンピック・パラリンピックは国際的なイベントの中でも特別な存在、特にその開催地となる国や都市にとっては世界にアピールするビッグチャンスとも言うべきものです。
2020年の開催に向けて東京でも様々な準備が進んでいますが、前回1964年の東京オリンピックでは、いったいどのような事があり、その後の日本にどのような影響を与えたのでしょう。当時の様子を振り返ってみたいと思います。
東京が大きく変わった あの頃の記憶
第二次世界大戦での敗戦から20年目に開催された東京大会は、敗戦国だった日本が国際社会へ再び仲間入りするきっかけでもありました。首都高速道路、羽田のモノレール、東海道新幹線などの交通インフラがデビューしたのも、もちろんこのオリンピック・パラリンピックに合わせてのことです。
代々木の国立競技場や駒沢オリンピック公園などはよく知られていますが、江ノ島ヨットハーバーや日本武道館、渋谷公会堂なども実はこの東京1964の産物。
その他にも都内を流れる川が埋め立てられたり、暗渠となったのもこの時期のこと。童謡「春の小川」のモデルとされる渋谷川の流れもその殆どが地下水路となり私たちの前から姿を消しました。建築ラッシュで街の様相もみるみる変化していきました。大会の前後では見違えるように変わったという点では、東京…いえ、日本の歴史に残るほど重要な出来事だったのです。
庶民の生活レベルに関わる大きな出来事としては地名や町名の変更があげられます。江戸時代から続く東京の町割りが行政や交通・流通などの効率化にあわなくなってきたからという理由で多くの町名が失われていきました。角筈は新宿、西新宿、歌舞伎町と細分化され、芝田町は芝、三田に。麻布箪笥町と麻布鳥井坂町の由緒ある名称も六本木◯丁目、赤坂青山高樹町は南青山にといった具合です。
この当時の東京都民の間で大論争を生んだこの地名・町名変更ですが、実はもうひとつの理由があったのです。それは複雑な町名を外国人にわかりやすい「合理的」なものにしなければという理屈。◯◯町◯◯丁目という区分がそれに当たるのでしょうが、この理屈どこかオリンピック開催地決定時に話題となった「おもてなし」の精神と似ていませんか。伝統的な名称を変更することの是非は問いませんが、このおもてなしの精神、半世紀以上を過ぎた現在にも共通するもののようです。
日本のスポーツ文化を変えた15日間
ではオリンピック・パラリンピックと庶民はと言うと、意外なことに開催直前までそれほどの盛り上がりも無かったというのが当時の正直な感想です。しかし、聖火リレーが始まる頃から、この状況は一気にヒートアップ。小さなブラウン管に映し出される開会式のテレビ映像を皮切りに、日本中をオリンピック一色に染める15日間が始まったのです。
テレビを通した各競技のライブ映像は、それまで野球や相撲が中心だったスポーツへの興味を大きく変えました。野球がメインだった男の子たちがサッカー、バスケットボールなど他の競技に目を向けるようになったのも、女の子たちの間でスポーツをする機会が増えたのも、障害者スポーツに目が向けられるようになったのもオリンピック・パラリンピックの開催と無関係ではありません。
人と人、人と自然の共生のためにできること
都民的視点からいえば名実ともに東京が日本の首都として意識されるようになったのも実はこの頃。海外からも日本=東京とイメージされるようになりました。
当時の日本は高度成長期の真っ只中、現代から見ればまだまだ貧しく、労働条件なども劣悪ではありましたがとりあえず“明日は今日よりよくなる”という楽観的な希望に溢れていました。
今、2020東京を目前にして、私たちは何を考えるべきでしょう。食料や人口の問題、貧困や格差社会、自然環境と人間生活のあり方。世界の人々が一同に会するオリンピック・パラリンピックは、今私たちが抱える様々な問題に目を向け、互いによりよい答えを探る機会でもあります。よりよい未来のためにできることの精一杯を、世界の人々と共に。
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