よく日本人は外国人の意見を気にしすぎると言われますが、この、“人の視線が気になる症候群”。別段、日本人特有の症状でもないようです。
その一例が先日中国のメディアが発表したあるニュースです。「同じ米食文化でありながら、日本の子どもたちのほうが中国人の子どもよりも体が強いのはなぜか」をテーマとした記事、そもそも身体の丈夫さと米食が直接結びつくとも思えないのですがどうなのでしょう。
記事では「日本人の子どもは冬でも薄着で、体格も中国の子より良さそう」としていますが、エビデンスはどのあたりなんでしょう。ただ、考えてみれば彼我を比べて反省を促す傾向、以前の日本にも確かにあったようです。
気になったのは記事の中で中国人の子どもについて言及していた部分です。“学校や放課後、週末の塾通いなど勉強ばかりの生活で、体を動かす時間すらない。また自由時間にもスマホのゲームばかりで、運動には全く興味がない”と指摘しています。これ高度成長期の日本でも同じ様な批判があったようにも思います。
さらに記事は日本と中国の子どもの体格や健康に影響しているのではないかと結ばれています。いささか強引とも思えるのですがどうなのでしょう。
日本人気質の底に流れるもの
そこで思い出したのが先日ニュース番組で紹介された教育事情に関する中国リポートです。日本同様高齢化が進む中国では2016年に一人っ子政策から二人っ子政策へと舵を切り直しました。しかし、政府の思惑とは異なり出生数はなかなか増えていないようなのです。
その原因の一つとされているのが、加熱する教育事情。韓国と並び日本以上に学歴社会と言われている中国では子どもの将来のため、自分たちの老後を見てもらうための投資目的などで教育熱が加熱しています。
学校はともかく塾、習い事、スポーツ教室など今中国での児童教育にかかる費用は一人っ子家庭経済で約2割。この様な事情から二人目は無理とする家庭が増えているのだそうです。科挙の歴史を持つ中国は何事にも徹底したやり方を好むお国柄とする見方が正しいわけではないとわかっているのですが、どうも一旦ベクトルが定まると方向転換に巨大なエネルギーを擁する国のように思えてなりません。
その点、日本はというと良く言えば柔軟、言い換えれば興味が長続きしないタイプ。江戸っ子の性格を表した言葉に「あっさりと恋も命もあきらめる江戸育ちほど悲しきはなし」とありますが、その精神江戸っ子のみならず多くの日本人に通じる精神の様に思えてなりません。
日本人とお米
と、ここで少し話はそれますが、日本の代表的な食文化、お米について少し紹介いたしましょう。そもそも、なぜ日本人はお米が主食なのか。お米の元となる稲は、縄文時代に伝わったと言われています。なお、縄文時代の当時は、今のような水田による稲作ではなく、焼き畑で稲を作っていたようです。
その後、弥生時代にはいまのように水田による稲作が始まります。水田による稲作によって、食料効率は大幅に高まります。稲を育てるのに適した気候は、高温多湿で、寒暖差があること。まさしく日本と稲は相性が良く、稲作は広まっていきます。
奈良時代には、すでにお米は日本の主食となっていたようです。ちなみに、日本では主食の米以外をおかずといいますが、これは平安時代の貴族の食膳に由来しているそう。当時は高杯に高盛りのご飯、まわりにおかず皿をならべたのですが、これが、「おもの」と「あわせ」と言われていました。このおものの数が多いことから、おかずと言われるようになったとのこと。
中国人 日本人 インド人 それぞれの米食文化事情とは
中国ニュースネタをもうひとつ。まず中国からお米はあくまでも数ある主食の1つで価格も非常に安いとしています。これに対し、日本は「お米こそが最重要な主食で、お米なしでは生きられない」としています。また日本人はシンプルな白飯も「匠の精神」で最高の銀シャリを追求すると結論づけています。
多分、匠の精神云々の部分は褒められているのだと思うのですが、糖質制限などの影響もあり、米消費が減っている我が国としては逆に食事情について考えさせられるような記事にも感じられます。
では、中国、日本と来てインドはというと「インド人はカレーが好きで、お米も欠かすことができない。しかし、インドでは真っ白な米飯を見ることはほとんどない。彼らはおかずと米飯を混ぜ合わせて食べる」としています。
三者三様ではありますが、確かに主食の名にふさわしい位置にあるという点では、日本人が一番の米好きだとも実感させられる記事でした。食の多様化がますます進む中で、今後の米と私たちの関わりが気になるところです。
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