文化・マナー・習慣

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これも日本文化?”武士道”や「侍」は海外で今も根強い人気

2018年10月13日

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日本文化を代表する海外で人気があるものと言えば、「」です。
日本文化の一部が海外でテレビなどに放送され侍が移った時に武士道と共に紹介されることがあります。書籍「武士道」で有名になったのは新渡戸稲造氏です。この本に、日本の武士道のことが詳しく語られています。現在でも日本文化を勉強する海外の人たちは、その本を読んで学んでいます。

誇り高き侍の像

日本文化そして侍とは

日本文化に代表される侍は、武士とも言いかえることができます。武士がいつごろから存在したかといえば、平安時代のころにはすでに存在したとされていますが、この歴史をさかのぼると奈良時代まで歴史を知らなければなりません。
当時は、稲作畑作が中心の時代でした。海外からの輸入などは一切ありません。日本の土地で作ったおコメや野菜などが日本人の口に入る形になっていました。ところが、たびたび不況などが起こってしまい、食べるものがなくなる事態が発生します。
ある程度の模索をする人物がいればよかったのですが、期待とは逆に、畑を耕さない人が増えました。やむを得ず国は土地を庶民にレンタルすることにしました。これが三世一身法とよばれるものです。
つまり、親と子供そして孫の3代にわたり土地を耕しての農作をしなさいという命令です。しかし、3代目になると、畑を耕さなくなる人が増えました。なぜなら、これまでの成果を国に返すことになるからです。苦心して耕した田んぼや畑なのに、国に返さなければならないなら農作業はしないと決心する人もいたわけです。

ねぶたで表現される武士の姿は今でも日本人の心の琴線にふれる

そこに武士が加わる瞬間

国は、このままでは農地が減少してしまうため、思い切って土地を庶民に譲ってしまうこととしました。これが墾田永年私財法とよばれる制度です。庶民は、国から土地をもらったので、畑や田んぼは国に返さなくて良くなりました。
これにより、農業を始めた者もいましたが、一方で農場をもらったものの農業に興味がない輩もいました。その土地は、耕していませんので一方的に荒れてしまいます。
土地をいらないと考える人がいる一方で、非常に農地をほしがっていた者もいました。その価値が分からない者は農地が欲しい者に明け渡すことにします。田畑はいらないのでお金が欲するものとお金を払ってでも田畑が欲する者がおり、田畑を欲するものはどんどん土地が増えていくことになります。やがてその土地を警備しなければならない地主たちが出てきました。地主たちは、いわゆる用心棒のような者を雇うことを考えました。これが武士の始まりとされています。

武士は集団をつくりはじめる

もともとは、荘園と呼ばれるたちの警備員だった武士たちは、次第に室町時代になると集団になるように流れが変わっていきます。やがて、広大な領土を持つ地主が現われ、侍をひきいて戦いをすることになりました。これが激化するとやがて戦国時代に突入していきます。このあたりから、武士が刀を持って戦う姿に変わっていったのです。
戦国時代は、武士が戦をすることになりますが、実はこのとき農民なども多数加わっていました。農民も農作の時期が終わると冬になります。手が空く農作の時期が始まるまでの間、戦に出ることになったわけです。
勝利した武士は、次第に土地を大きくし戦国大名になるものもいました。
ところが、戦国時代も終わり、平穏な世の中が訪れると、刀を捨ててとまではいきませんが、兜を脱ぎすて、身分の上にあぐらをかく者も現れました。形だけ、刀を持ってちょんまげをゆっている姿を保っている者もいたようです。

武士の甲冑(鎧)

武士は、奈良時代ごろには多く存在しましたが、やがて江戸時代になるころには、刀は持っていたものの、甲冑などはすでに質屋により払ってしまった人も多く、黒船が来日する頃まで平和の時を過ごすこととなります。
海外では、現代でも武士は戦っている姿のイメージを持っている方が多いようですが、実は時代や生活により形を変えてきました。
今回は、駆け足でのご紹介でしたが、本格的に武士の歴史を追うと、日本の歴史を知ることにもつながりそうですね。

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